No 223
Date 2010・07・25・Sun
「建築はどこにあるの? 7つのインスタレーション」展東京国立近代美術館での建築展を見てきました。
この展覧会の面白いのは、美術や建築の関係者やライターなんかと話してみて、 雑誌や公式ブログみたいなオフィシャルな場での意見と、ツイッターや生の声とで、 「面白かった派」と「面白くなかった派」の優劣が全く逆転してるっていう部分ですね。 (これぞ自衛のために正直なことばかり書けないってメディアの事情なんでしょう。) 僕はメディアじゃないので、正直にコメントしたいと思います。 本展は、空間づくりに長けた建築家が展示空間を扱う従来型インスタレーションより、 展示物を求められたのか、自らアーティストを振る舞ったのか?って雰囲気が強くて、 損したとも思わないが前評判ほどでは決してなく、全体に少し違和感が残りました。 (キュレーションの欠如か、意図的な放棄かが微妙なので、『違和感』としときます。) そんな中、新たな空間(または空間体験)を生みだそうとする、言い換えればそういう姿勢自体は従来型インスタレーションとも言える、内藤廣氏、中村竜治氏の展示は、 しつらえによって新たな体験や現象を引き起こす興味深いものだと、感じました。 ![]() ![]() ![]() この展覧会を通じ、建築とアートの違いとか、距離を保つ重要さを改めて考えました。 話題性があれば何でも利用するメディアは、建築をいまさらアートの一種にくくり直し、 そのアートごと「(消費物たる)ファッション」扱いして、売りさばく流れにあります。 ファッションやトレンドは、流行っては廃れるからこそ、周辺メディアが生きていける。 しかし建築は本来50年~60年と建ち続けるべきで、簡単に廃れては困るものです。 メディア内部の方々自身からさえ、それを危惧する声を聞くというのに、建築家たちが その流行に(全く無頓着でもまずいけど、)乗ろうなんてイヤらしい商売根性出したり、 妙にすり寄りアートっぽく振る舞って、自ら価値を下げないかなぁと…。餅は餅屋。 作家自身が生み出す絵画や彫刻と違い、発注者の代理出産たる建築に、建築家は 芸術性も求められるが、自らそれを「アート」と言い放ってはならないと学びました。 それに主に芸術性を求めてくるのは、実は無責任な第三者たるメディアや批評家で、 ユーザーは何より機能性や耐久性を求めます。そして何より、誰にも求められずとも 我ら自身が重んずべきが社会性で、これこそ建築家の矜持の拠り所だと思います。 「『用・強・美』なんて古臭いバランスに縛られず、自由に崩してみようよ!」というのが 最近のトレンドなら、それこそすぐに廃れる類の流行じゃないかなと僕は予想します。 スポンサーサイト
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